写りこむ無形のかさねから

一見自分と無関係に見えるものが、
自分のなまの感覚に変換されて強烈に感じられることがある

メールで送られてきたいくつかの写真 その中の一枚
海の波を撮したモノクローム

ものをいわない写真からなにかの残響音がきこえてくる。
こういう海を以前みたことがある というのではなく
波の音でもない、それは自分の中にいつかある時響いていた音。
自分の中の(記憶なのか何なのか)あるリアルな痛みに似た。
はがされる表皮のような

『私、コレ 知ってる  コレは 私』
その瞬間、写真は写真でなくなる。

長谷川等伯の松林図が私にとってのそれだったのだけど
このところなんとなくではなく写真に接するようになって
写真に写っているものとうけとっているもの
写真として見えているものと自分が見ているものが
まったく違っていることに改めて気がついて、楽しくてこわくて楽しい。

思えば世の中の総てがそう。
山並を見ても河を見ても巨木や都市を見ても人は
そこに自分のリアルをかさねて感じ取っている。
それは好きなように感じ取っているだけ なのだろうか。
それが発しているものと、こちらの感覚と、
そしてもっと大きく総てを取り巻いてうねっているなにかがそこに入り込んできて
一瞬見え隠れするようなものを垣間見ているような気がする。
私たちはいつだって見えているものを通して見えていないものをみているようだ。

源氏物語も書かれてある恋愛の物語をだけ見ていてもなんにもみえてこない。
当時のハーレクインロマンスなら現代にこうまで残らなかったはずだ。
私たちは空気や光や距離や時間やものや思いがかさなりあったその先に、
春をみつけたり、誰かの心を感じたり、
いい知れない恐怖や喜びを体験したりしている。
そうして、粒子の粗い 感情というものが生まれる前に
意識にのぼらない微細な振動を体は受け取って感覚しているように思う。
いにしえの人の感覚はもっとずっと研ぎ澄まされていただろう。
一瞬の真実の秘密をここに取り出す写真は、
ある意味鈍った現代人の感覚に光のメスをいれるようなものなのだろうか。

言葉は発声することで意味とは違うエネルギーを帯びて
居合わせる人の耳からその人の中に忍び込み、縛ったりほどいたり揺さぶったりする。
託されているものは機能したりしなかったりするけれどそんなことはいい。
その人を通り抜けることが肝心で、
それこそ求めている出逢いであり交わりなのだと思う。
味わうのは身体に残る響。インド音楽のように。
光と時間が出逢う写真もまばたきの残像のように響きを以て目の奥に焼き付けられる。
永遠の一瞬 そしてうつろう一瞬   ちょっとすてき


眠れぬ森のびじょん