樹海に潜る

初めて体験する大きな揺れ
デパートの何階だったか、恐怖の時間だった。
誘導されて外に出てからも、地面やビルが大きく揺れた。
寒い中随分待ってバスで戻った。
やれやれと思ったことが自分の幸運だったと知ったのは
家に着いて京都の実家に連絡をとり、
TVで想像以上の現実を見たときだった。
普段TVをまったくといっていいほど見ないので、なまなましい映像は
これが本当に起こっていることだと俄には信じることが出来なかった。
間断なく起こる大小の余震にほとんど眠れない夜を過ごして
翌日は一日もう映像から目が放せなかった。
落ち着こうと思いながらもざわざわして体調が崩れてくる。

そして今日、以前から行きたかった場所に縁あって連れていただいた。
もとは打ち合わせの予定だったが福島の方は今それどころではなく。
こんな時に と思ったけれど、ガクガクしている膝を叩いて思い切って出掛けた。

訪ねたのは富士山嶺に家を建て富士山の写真を撮り続けているOさん宅。
歩き慣れた庭のような樹海を案内していただく。

以前ちょっと覗いて見た樹海はうっそうとしていて
なにかの気配が呼んでいるようにも拒んでいるようにも思われたけれど、
今日は先日降った雪が随分積もって手つかず(足つかず?)の状態だった。
葉が落ちているので晴れた日差しが眩しく雪に射し輝いて、嘘のように美しい。
鹿の歩いた跡は細く雪に深く差し込まれ、
覗くとハート型みにえる蹄が力強く地面に届いている。
私の足跡は足が深々と埋まっても地面にそうは突き刺さらない。

樹型溶岩の中にロープを使って降りてみると
そこから見える世界は別のものだった。
大きな風穴の中にも降りてみる。
一滴一滴岩からしみ出した水が特大のつららを作って、
からしたたり落ちる一滴一滴でその下には氷筍がおんもりと上に育っている。
一方で消え落ちて、一方では受け継がれていく。
曇りない透明なことと切るような冷たさに、冬と春の間の一瞬
形を変えてゆく大きなうねりの雛形を見るようではっとした。
風化を始めたカモシカの骸骨が静かに自然にとけている。

血脈のように細く伸びた高い梢をざわざわ泣かせながら渡っていく風が
山の神が空を翔て行くみたいに目に見える。
1200年前の地層、江戸時代の大噴火の跡
自然の力は大きすぎて、人間はあまりにも無力だ。
けれど目の前に延々と広がるのは、
焼き尽くされてもなお再生し、溶岩を抱き込み根を張った豊かな樹海。
光に向かって手を伸ばしている木々は厳しい姿ながら静かに私に力をくれた。

速度規制の布かれた高速道路から見えてきたいつもの東京の景色は
現実のように見えなかった。
一瞬にしてこれらが消えてしまうことが明日にでも起こるかも知れないのだ。
これを書いている今も小刻みな揺れが続いている。
あまりにも悲惨な現状は日を追う事に深刻さを増していくだろうけれど
共振して震えているばかりではなく、今の自分に出来ることを思う。
人間の力は小さくて自然にはかなわないけれど、
命の望む力もまたはかり知れないのだから。