復活

四月のキッド・アイラック・アート・ホールからふっつり更新せずにいましたが
いろんな意味で復活!です。
四月の隔月公演の翌日、にわかに引っ越しを決め、その準備に取りかかりました。
ひと月足らずの猶予しかありません。
ん十年の歳月と共にふくらんだ持ち物、さてこれをどうすべ。
そんなどたばたの中、7日には富士山嶺にお住まいの
貝合わせ作家 松尾春海さんの「週末空間まろう」で
大好きなシタール奏者の伊藤公朗さんと、息子の快君と三人で
「夕顔の巻」。初めてシタールとギターで語りました。
最初インド音楽源氏物語…とどうなるのかしらと思いましたが
シタールの陰影に富んだミステリアスな音色で六条御息所を、
ギターのやさしげな清い音色で夕顔の君を表現していただくことにし、
掛け合いも交えての立体感ある語りの場となりました。

質の違うものがなにか曼荼羅のように響き合って
初めてのスリリングな要素も手伝って、またもう少し工夫して
どこかお寺などでやってみようと思いました。

そして13日から三日間、地震津波に被災した大地を踏みました。
ある取材に同行してのことです。
まず岩手に入って、中尊寺をお参りしました。
こちらはまだ桜が咲いていて、今年はほんとうに桜に心よりそう年だと思いました。

ここに先の松尾春海さんの亡くなったご主人で仏師の 秀麻呂さんの三尊像に出会い、
一週間前に春海さんにお目にかかったときには予定していなかったことだったので
ご縁だなあ と感じました。

街を車で抜けていくと予兆もなくあるところからいきなり瓦礫。驚きました。
被災した気仙沼 波がなめたところ、そうでないところの差は
あまりにも大きく違っていて、港には焼けただれた舟が、
倒壊を免れた住宅地には置き去りにされた大きな舟がいくつも。
映像で見ていたにしても実際、目を疑うような光景です。
全体をあらわにした舟の異様な姿がここかしこにまだ放置してあり
「すぐには撤去できません」の印のように、転倒防止の支えが溶接してあります。

志津川の被害も大変なものでした。
松島の松林…東松島の海岸線はなぎ倒された松と更地のようになってしまった大地
まるで古生代に来たかのようでした。おおかたの松はかたづけられていましたが
海水の沼地から首をもたげた松の茶色い姿は鳴くのをやめた生き物のようでした。
松島は津波は免れたようで、宿の窓から大きな大山蓮華が咲いているのが見え、
東北の地は、いまこそ光に包まれる季節のただ中にいるのだ と
痛ましくも、地の力を信じないではいられませんでした。

閖上には入れませんでした。
岩佐市 亘理町 そして荒浜
全く被害を受けていないかのように一見見える家の向かいは
基礎しか残っていない波の爪痕。
延々と続くその光景 きっと総動員して作業しているのでしょうが
目に見える復旧作業は、広大な瓦礫の広がる中に重機がぽつぽつといった印象でした。
そして空はどこまでも青くて これは日本のどこにも繋がっている空なんだ
地球全体をおおっている空なんだと
東北 ではなく 私の生まれた国 そして地球のことなんだと思いました。

空になった味噌樽がいくつか残る大きな倉をお持ちのお家の前を通りがかり、
そこではがれきの山を前に可愛い兄弟が遊んでいました。
お祖母様からお話を伺うと
商いはもうできず、家の修理にも莫大な費用がかかってしまい、もう引っ越すしかない。
家族全員怪我もなかったけれど、お向かいの家は基礎ごと流されて、
住んでいた老夫婦も見つからないままだと言うことでした。
それでも幼い子供が遊ぶ声に希望がみえましたが
遊ぶと言っても、おもちゃもなにもみんな無くなってしまい、
お父さんががれきを片付けるのに使うハンマーで
壊れた様々のものをさらに細かく砕いているのです。
締め付けられるような気持ちになりました。

三日目には何と言うことか、
こんな惨状にも目が慣れてしまったとでも言うのか
あまりの広範囲、目に見えるものすべてが筆舌尽くしがたい有様のあまり、
感覚がもうどうかしてしまっているのです。
そして日々順応してゆく子供には
この状態がどう躰にしみついてゆくのだろう。
毎日毎日当たり前に目にするものすべてが がれきの山
頑丈に見える車までもがくちゃくちゃに潰れているのを見続けて
「こうであったものが こんなになった。 あるべき姿はこんなでなくて こう。」
と頭で整理できる大人とは違った子供のやわらかい感性に
今後どう響いてゆくのだろうと 複雑な思いです。
今もあの子達の可愛い声と笑顔を思い出します。
今はどこの小学校に通っているのかな…。

油の混じった海水が、土地のあちこちにまだ溜まっていて
マンションに簾のようにかかった養殖のホタテ貝や海草の臭い
一見ぐしゃぐしゃの瓦礫も 傍を歩いてみると そこには
誰かの思い出の詰まった日記や宝箱、毎日使ったお茶碗 着物 かわいがった人形
一つ一つに物語が詰まっているものばかり。
そういうものたちがじっと口をつぐんで 
やわらかいものは風にひろひろと棚引いているのです。
きっとまだ今も。

一瞬 時空が歪められたみたいに 別ものに変わってしまった世界
あちこちに見る壊れた時計は 津波の時間をさして止まっていました。

東京に戻って 自分の部屋の沢山の荷物と対面しました。
これは 要る?これは? と自分に問いました。
時間をかけて、ものの持つ魔法の効力が解けているものがたくさんありました。
どんどん捨てました。どんどん。
捨てられずにもっていたもの沢山とさよならして
旅の人みたいに生きられたら。

25日に それでも時間切れで沢山の荷物と共に引っ越しをしました。
さあ、これから捨てるのだ。
大家さんは本当に親切な方で、出て行く私を残念がって下さり
たくさんのお心遣いをいただきました。うえええん。ありがとうございました。

さあ、新居片付け! と思ったのですが、29日は神戸の公演。
6/4は人形町の細尾さんでの語り会、
そして目の前にもう隔月公演が迫っています。
チラシの発送も遅れていて今回は慌てました。
そしてキッド・アイラック・アート・ホール目前の水曜日!
なれない階段から落ちましたのです。どおおおおん。

左足の捻挫は何度も経験していて、その対処法も心得ているつもりでした。
でも今回はちょとちゃう。息が詰まって目の前が暗くなって心臓ばくばく。
鍼灸師のさくら姐さんに電話すると「すぐレントゲン!」「はい!」
ネットで一番近い整形外科へ。

「はい 山下さん 折れてます。」「へ?」「骨折です」「は 」

痛みよりも、この週末が本番だっちゅうことに 気が遠くなりました。
まだまだパンフレットもプリントしていない、当日の解説もまとまってない、
衣装も決めてない、音楽CDも焼いてない!ないないない!
「どないするのん 山下さん…」 自問に自答
「やるしかあらしまへん」

両手に松葉杖で十二分程の道のりを一時間もかかって戻り
まずは頭を冷やしていると、さくら姐さんが夕食を持ってお見舞いに来て下さって
おかげでずいぶん客観的になれました。
それからやました ターボかかりました。
普段使わない頭も使いました。
毎回、準備不完全で、よおおし!と自分にOKが出せないままに本番の日を迎えていますが
手も足も出ないと判ると開き直るのか 緊張している余裕すらありまへなんだ。
でも読みに集中していると痛みを忘れるのが「ええやん」
実際痛がってる間も無く本番でした。

巻は明石。すらりとした美人。さすがに着物で 右足は細い草履に 
左足はギプスにおっさんサンダル松葉杖はいただけまへん。
ステージドアの向こうでおっさんサンダル松葉杖の呪縛を解いて
(ものは云いようやおへんか)
友人に手を引いてもらい、花嫁のように登場(ものは云いようやて)
二日間なんとかこなし、終わった安堵感に
「お足元にお気をつけて御返り下さい」やて
あんたに云われとうないわ。
というところでござりまひょう。

本番前の緊張感 それで頭が空になっていてはいけません
そういうときこそ心を澄ませて落ち着いて行動せねば。
着物など着て源氏物語など読んでいると
おしとやかな人 って思っておらるる方が多うござりましょうが
とんでもあらしまへん
ほんまに粗忽者。
キッド・アイラック・アート・ホールの翌日、今度は京都の仕事で実家へ。
両親もびっくり。

ま、なんとか日々を送っております。とても元気です。
やけくそではなくほんとうに。
こういう時ってどういうわけか仕事が続くのですね。
明日は震災津波関連のナレーション取り
日曜は赤城山の麓 緑陰の素敵な素敵な中ノ沢美術館で
彫刻に囲まれて源氏物語です。

痛みも苦しみもそして喜びも
いただいているいのちあってこそ。

置かれている状況の中を どう 生きるのか
真剣に考えろ と雷が落ちたのでした。
感謝します。


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