海とのやりとり

人の力の源泉はどこにあるのだろう。
福島のこおりやま文学の森資料館で「桐壺」の巻を聞いていただいた。
前回と同じようにこちらが激励され力を貰い、
その瞳の中に、発せられた言葉の中に、強い輝きを見た。
この日会津に足を延ばすつもりでいたのが先方の御都合が悪くなった。でもこのまま帰るのではなく、この地で深呼吸がしたかった。


震災の後の5月、津波を免れた松島、壊滅的な被災をした東松島を歩いた。
そして今年競技かるたの会で語らせていただいた折、
松島を臨む宿に泊まり 朝日が昇ってくるのを見つめた。
眺めるばかりの海は凪いでいて、静かで遠く、それが逆に心を波立たせた。
そうだ松島に行こう。東京から応援に駆けつけてくださった出版社の方々を見送って仙台に向かい、松島が見渡せる宿をとった。

翌日は雲間から時々陽が射す天気。

朱塗りの長橋に続く福浦島という小さな島に渡る。
福島に裏という文字が入ったこの島、なにか不思議な響きを感じた。
小さい島ながらゆっくり歩くと森林と海の風景を堪能できる。
豊かな植生が折からの強風に梢の道をあけてざわめく中
沢山の小鳥が忙しそうに飛び交うのを飽きずにみていた。
小さな砂浜に降りると波が静かに寄せては返す。


太陽が顔をだすとにわかに海も木々もきらきらと輝いて
雲が太陽を隠すに従って溜息のようにまた静けさがあたりを支配した。
宇宙全体がそうして呼吸しているように感じられた。
そして光源氏を中心とした源氏物語の世界はきっとこのようなものだと思った。太陽は有無を言わせずものを照らし、はぐくみかつ痛めつける。
頼み畏れるのは抗いがたい力なのだ。
源氏物語が浮舟という女君を登場させて終わるのは
荒波の中に頼りない小舟で漕ぎ出す女達の出発点なのか。
紫式部が迫り来る中世を見据えていたように私達もまた
新しい世界の到来を予感している。
絶望的とも言える地点から のぼる朝日を仰ぐがごとく。
そして今日は日々新しい。



島巡りの船に乗り込んで、島々を眺めながら外海に出る。
浮かんでいるように見える島は海の底では当然地続きで
地球という星の大地が風に触れている部分に過ぎない。
そんなところに見えない線を引いて獲ったの護ったのといっている。


外海に出ると松島の穏やかさを忘れさせるような波飛沫が船を覆う。
「あそこに見える島が防波堤になってくれて、津波から松島を守ってくれたんです。」
と、多分船長さんのおかみさんだろうと思われる人が語ってくれた。
気さくにだけど一言一言、ことばを大事に話す人だった。それは身体の中に刻み込まれた体験が放つ声、昨日郡山の人々の声の中に感じた輝きもそれなのだと思い、物語を読む自分の声よりもずっと心に響くものがあるのだと思った。




語りは自分の経験ではないけれど、それを身体に通すこと自体が経験だと思う。
人はみな、目に見えるものと見えないものを等しく持っていて
自分のものだと思っている身体も実は不随意な部分のほうが多い。見ていると思っている先には捉えきれない世界が広がっている。

表現は時に芸術とかアートと呼ばれ、人々はそれに接して新たな発見に驚いたり感動したりすることを求めているけれど、自分の外に求めたそれが実は自分の中にあるのだということに気付いてもらうために私達の活動はあるのだと思し、そんな表現が出来ればいまここに生かして貰っていることに礼を尽くすことが出来るのではないかと思う。


以前、「私、海に還る」と喜々として海に向かった夢を見たことがあった。月の力を借りて大いなる呼吸をしている海に等しくふるさとを持っている私達。人生の総てがあるように感じているこの小さな陸地を取り巻く海からの息吹を、街に住んでいて感じることはほとんど無いのだけれど、この世界はソラリスの海のように私達の潜在意識が創っている。諦観せずに、この海にエネルギーを送り続けよう。





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