命を宿すもの

 無事二十四帖「胡蝶」の巻を語り終えることが出来ました。有難うざいます。
今回は以前舞台で演出していただいた懐かしい先生に聴いていただけました。
また高校時代のごく短期間ですが一緒にバンド活動などした懐かしい先輩、
ラジオドラマをずっときいて下さっていた方、さまざまの嬉しい再会の中で、
いつもいつも励まして下さった方の不在に涙しました。この連続語り会を始めたときに、
「私も10年間、元気に長生きして最後まで聴きますね」といって下さった中井先生の幼なじみの方・・・。
この連続語り会が始まって4年、あっという間の、でもまだ4年。五十四帖の半分にも満たないのです。
玉鬘十帖が終わると最大の難関「若菜 上下」が待っています。
中井先生がこれをこそ・・・といっておいでだった長大な巻。
どうようにこの大海に漕ぎ出してゆくのでしょうか。
ご冥福を祈りつつじっくり考えたいと思います。

会が終わって、おあずけにしていた展覧会に。

 円空展では、一室の小規模な展示でしたが芯からあっためてもらえました。
仏像の前に立つと、反射的に自分の中の甘えをを正して向かうような気がするけれど、
円空菩薩って「合掌」というかたち以前に思わず手が胸の前に合わさって、
近づくほどにうれし涙とともに抱きつきたくなってしまうのです。
ありのままの自分を許してもらえるような気がするのです。
木を縦に三等分にして彫られた三体の仏様は、また合わせると一本の木に戻る。
木の中心では三体の仏様の合掌の手が結ばれるかのようです。
円空さんの彫る仏様の合掌は細かに手を表現せずに、
衣の中で合わせられたようになっていて、それがあったかい。。。
ぎざぎざとざっくりとしていながら風になびくような衣の様子は、遠くから見る杉木立みたい。
木から生まれた仏様というより、仏様が立ち並んで木立になっていったのかも知れません。

 文楽「曾根崎心中」のお初 徳兵衛 その死の道行きの場面にスポットを当てた映像展「人間・人形 映写展」。
人間国宝吉田 簑助さん(お初)と桐竹勘十郎さん(徳兵衛)の舞台を以前拝見して、
感激のあまり終演後も暫く席を立てなかった作品を、ゆるやかなスローモーションで、
普段は決してみることの出来ない角度で体感することが出来ました。
閉ざされた恋の中に死んでゆく若い二人、恋人の刃を胸に受けるお初のやわらかな微笑み。
人形に此方が感情移入しているのではないのです。人形を超えて、型を超えて、人間の表現まで超えたような命の宿りに狂おしいほどに感動したのです。
現在最高のお二人の人形を遣う様子も人形を持たないかたちで見せていただけて、
ものに命を宿らせるという至高のお仕事に心から敬服したのでした・・・。

 そしてピナ・バウシュの舞踊団のダンサー ジャン・サスポータスさん、斉藤撤さんらの「うたをさがして」。
喪失の沈黙が やがてことばとなり うたとなって 身体からこぼれ出す。
身体の奥底に沈殿した命が光となって芽を吹き出すような 素晴らしいステージでした。
さとうじゅんこさんの深い歌声の寛さに、
飛べない大きな鳥が羽ばたきはじめるようなサスポータスさんの軌跡に、
斉藤さんの詩的な音と間とうねりの世界観、喜多さんの変幻自在に、静かに狂いました。

 久しぶりの西洋絵画展でみたエル・グレコ
かつての 絵に描かれたような神の世界に裏切られたかのごとくにグレコの描く身体はねじれ、くねりだします。頭をもたげ天を見上げて 十字架に身を委ねないキリストの目は生々しく光を宿しています。
時代による宗教観の変化を聴きながらみた数々の作品に、血の通った人間のさまが伺えました。
日本でも中世において人々がかぶきだしたように、地に足をつけて苦しみも喜びも肉体を以て感覚し、真に生き始めた人間の表現が始まった時代なのだろうかと感じました。
 

 表現に命を宿らせること それは
姿を変えてなお命を欲している目に見えないものと出逢って、
そして表現者がまた目に見えない器になれるかどうか
光のようにとりとめもない、あるものを この手にいたわることが そしてどれだけできるのか
生まれて 死んでゆく短い時間の中でそれがひとつになったとき 
人は本当の宿命を生きることになるのだと思います。




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