葵の巻登山

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キッド・アイラック・アート・ホールでの第九回語り会「葵」が終わりました。
今回は五十四帖のなかでも、私の中では富士山級の気持ちで臨みました。
彼方と此方の世界の境界線が不確かになる壮大な巻。
物語も山有り谷有り 物の怪はでる 子供は生まれる 死人は出る 新枕は交わす
次元の違うようにみえるそれぞれが、実は命・魂という不安定な無形のものを軸にかさなりあい、災いし、終わりを告げ、始まりとなる・・・

なんという壮絶な世界観でしょう。
交互に語られる御息所の苦しみと、葵の苦しみ
二つの時空の隔たりが物語の進行につれ次第にかさなりあってゆく妙は
これが千年前の物語とは信じがたいものがあります。
同じようなクロスカッティングという映画の手法が初めて使われたのは1903年
「ついこないだのことやないですか・・・」

心理学という分野の発達もみなかった当時
物の怪の存在を恐れる平安貴族達の中でひとり
良心の呵責、心の鬼こそが物の怪の正体だと見すえながら、
作中人物を死に至らしめるほどの物の怪の心情を
待つしかない女の苦しみを通してリアルに描き出す紫式部
またその発端を、祭という非日常の時空間に置き、集団意識に分離する心情が
心と体をさらに隔ててゆく過程は、何度読んでもゾクゾクするものがありました。

劇場という場所は、多くの人の集う非日常の場という意味で、
祭に似た環境だと思います。
キッド・アイラック・アート・ホールのタイムカプセルの中、語る身ながら少し怖くて、
唐招提寺修復の時に廃材としてでた平安時代鎌倉時代かわからない松からつくられたというお数珠を手首に巻いて臨みました。そう、気は心。
それにしても怖い巻。地獄と天国ほどのひらきのある陰と陽でした。
でもそれは常に表裏一体、本当はそこに境がないのだということを、
この巻は物語っているように思います。

六条御息所にとても興味があります。
教養がありすぎて、自制心も人一倍、体面を重んじる情の深い女性。
意識の束縛から開放されたいと私も願う一人ですが、
その時の自分の真の姿というのはどんなものなのだろう。ちょっと怖いですね。
紫式部ってもしかしたら御息所と同じような性質だったのではないだろうかと思います。
だから朝顔の姫君にもこだわったのではないかしらと。



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喜びも悲しみもあるので着物は迷いました。
少し紫がかった濃い栗の色、ちりめんに手書きの草花が落ち松葉にしだれています。
帯はお相撲さんの化粧まわしみたいに派手な袋帯なんですが
葵、菊、桐とこの巻に合わせたような織り、叔母の若い頃のもののおさがり。あまりにはでやかで締める機会があるのかしらと思っていました。

本当に長時間、お付き合いくださった皆様に感謝致します。
だんだんと一つになっていく空気を感じました。
無我夢中でしたので出来のほどはわかりませんがこの一体感がかけがえの無い喜びであり、宝物です。有り難うございます!