磯江毅さんの絵に衝撃

土曜日に
磯江毅 グスタボ・イソエ
マドリード・リアリズムの異才

と称された絵画展に。

驚きの絵画展でした。

スペインで活動の後日本にアトリエを構え
緻密さ故に一作品ごとに時間をかけながらも
沢山の作品を残した夭逝の画家。
存在さえ知りませんでした。

写実の極みはこれまでいくつか観ては来たけれど
本物みたい、なんてものをはるかに超えていて
それはこの画家のものへの向かい方そのものであると思いました。

描く対象をとことんみつめて
その肌の下にある青い血脈の中を流れるあたたかい生 体脂
古い瓶の ほこりが積もってもなを鈍くかえる光
年月を知るテーブルや皿のこまかな傷
薄いガラス板に映り込む時空のかさなり
時間と共に潰えてゆく細胞

写真のようでありながら
驚異的な精密さで描き込まれた細部は
距離と共にかすむことなく、
離れていながら間近でみるような
人間の目の焦点が生きづいていて
小さな印刷物になっても
描かれたものの奥からそのものの本質がこちらに届いてくる


構図のみごとなことにも口をあんぐり
牧谿の「柿図」を思わせるような柘榴の配置
真上から観た丸皿の円弧にそうようにおかれた骨の露わな魚や枯れた花
闇とも言えない静謐なしとねに浮かぶように横たわる女性
深い眠りは生と死をたゆたっている

なにか禅の世界に通じるような気がして。
 禅 などわかっちゃいないのですがなんとはなしに




表現することってなんだろうと考える日々ですが
自己表現にとどまっていては
どんなにその気になって達成感を味わっても
自分で作った限りある世界の中にしかいない。

ここじゃないどこかにいきたいのだけど
そしてみなさんと一緒に旅をしたいのだけど
それにはしがみついている自分を手放さないといけない。

対象の解釈、表現の手法と精度、身体の鍛練、
表現しようとする人が日々怠ることの出来ないものは山ほどあって
それは自分自身の追求に他ならないのだけれど
最終的にその自己を滅却しないと
飛びたって旅することは出来ないと思います。
ああ たいへんだ

でも

ほどかれた世界にいく可能性を
この夭逝の画家が命懸けで見せてくれたように思いました。

そしてそして
日曜日には

恵比寿の写真美術館に

江成常夫写真展
〜昭和史のかたち〜

日本人として この時期に 観ておかなくてはと。
波に洗われる南の島
そこから聞こえる 鬼哭
被爆された方々、孤児として残された方々の無言の眼差しにとりかこまれて
時々写真に写り込む自分の姿にはっとしながら。
息が詰まりそうになったけど
そのあとでみたのは
鬼海弘雄写真展
東京ポートレイト

ああ、人ってなんて個性に溢れてすてきなんでしょう。
またキャプションがすごくいい!!
写真集にサインを頂いちゃいました。
帰り道、行き交う人を見ていると
この人も、あの人も、みんな東京ポートレイトだっ
と楽しく嬉しくなりました。
ひょっとして私もそこにはいって
なにやらほほえましくおかしいキャプションが
ついちゃうのかもしれない!?

おすすめの展覧会のご紹介でした。
人間ばんざいありがとね