熊野聖地が

以前高野山から青岸渡寺まで中辺路の古道を歩き
産道をくぐり抜けてもう一度生まれるような気持ちになった熊野。
このたびの桁外れの豪雨で何人もの死者が出
那智大社に土砂が流入
文覚の滝には大岩が崩落して瀧そのものが失われてしまうという被害。

ひたすら静かな息づきで
毛並みにそってなでるようによりそってくれた森の気配

行く先あてなく心許ないひとりごころを
気の遠くなるような過去から自分に繋がるいのちの鎖をみせて
懐かしい確信に変えてくれた三千年生きてきたという神代杉

白い龍が次々に惜しげもなく身を投げる那智の滝

地球から続く水脈を通して梢から放射される樹のいのちの営みを
再度生まれる胎内として教えてくれた大樹の洞。

個人的に過ぎる体験とはいえ
自分にとって転機となった大事な数日間を過ごしたかの聖地が
自然の営みによって様変わりしてしまったことに
大きなショックを受けました。

ある方からメールで
「『自然の神は、自ら自然を破壊しているのだ!』という事実に、私は、
憤りすら感じます。」
と頂きました。

熊野は世界遺産にも登録されています。きっと大きな損失でしょう。
でもそんなことがなんでしょうか。

この聖地は自らを壊すまでして私たちにものを問うているのです。
人間がとどめておきたいその姿は人間のエゴです。
日本は昔からおちこちに自然の力によっておおきく揺さぶられてきて
人などひとたまりもない大きな大地や海の動きは
そのまま神の発動なるエネルギーと感じられ
人はその地を畏れ敬い みだりがましいことを慎んできました。
 
奇しくも昨日鑑賞した文楽では
東北にエールを送る三番叟が上演され
太夫さんが声に乗せるその最初のことばは
国常立尊による国の興りでした

一体日本のどこからどこまでが守るべき世界遺産
どこからが敬わずによい土地なのでしょう。
津波にみまわれた東北の地も 
あたり一帯聖地だったはず。
少し前までは人はそこに住まわせてもらうこと自体に謹みを持って
振る舞いも慎んでいのちを繋いできたはず
日本の津々浦々 そんな場所ばかりです
今その聖地のそこかしこに 日本経済の電源がある

私たちを慈しんで育ててくれる自然が時に逆巻くように
この電源もふとしたことで荒れ狂ってしまう。
土地の神様が持っていた火の玉を
失敬してしまった私たち

土地の神様はみずからを壊して
私たちの行いを戒めているに違いない

以前は他の動物たちと同じように見えないものをみようとした人間も
今はもう目に見えることしか見ようとしない
それも多少のことでは気づけない。
熊野のように誰もが大事だと思って
『神様、ここに居て下さいねっ』と神殿を建てた場所
そうした実体のあるものを壊さないともう
私たちには気づく力がないんだと言われてしまったように思う


熊野で熾ったこのたびのことと
福島で、東北で起こっていることとは
私には同じことのように思えます。
あんなことがおこっても そしてなんら終息するどころか
知らされないままに深刻になっていっても
見果てぬ夢を捨てられない一部のエゴイストには
この熊野の聖地の有様はどう映っているのでしょう