日々の尊さ

ニーチェの馬 という映画を観た。
吹き荒れ狂う嵐の中 荷馬車を走らせる老人
その長回し
引きずるような音楽は神経を重く引っ掻くような空気を作る

家に戻り 声も交わさず着替えを手伝う娘をじっとみつめる老人の目は
左目ばかりが深く鋭い。
異様にも見える着替えのシーンで
老人の右手が麻痺しているとわかる。
「食事よ」娘が告げる。
食事とはゆでたジャガイモのみ。手で食べる。
それが終わると会話もなく一日は終わる。
外は嵐。

翌日もやまない嵐に 馬は動こうとしない。
こんな嵐の中 老人は
家に巣くう 木喰い虫 の音がしなくなったと言う。
いやな兆しだ。

近所づきあいもないこの家に
焼酎を分けてくれと男がやってきて
街はもうだめだ と
人々の精神が滅んでしまったことを語る。

娘は嵐の中、家の外にある井戸に水をくみに行く。
バケツに二杯の水で一日を過ごす。
起きて 着替えて 水をくんで ストーブに薪を入れ
朝食は焼酎を少し
夜はジャガイモに塩のみ その繰り返し。
家財 道具も最小限だけれど生きるに足りないものはない。

つましい生活を暮らす親子の井戸を
流れ者の家族が立ち寄って「水だ!」
この土地を捨てて「アメリカ」へ行くという。
中の年長者(父親らしい)が聖書を娘に手渡し去っていく。

一日を終えて娘は辿々しく聖書を声にする。

嵐はやまない 
さながら地の底から甦った亡者達が吠えるようだ
馬もこのところ水さえ飲まない。

5日目になると命をつないだ井戸が枯れる。

一旦は荷造りをして 馬を牽いて家をあとにするも
すぐに戻ってくる父と娘
どこへもいかない のだ

そして嵐はふつとやむ

水という命を絶たれて
ランプの火種まで絶える

それでも生きなくてはと
テーブルに向かい合う6日目の親子の姿に
いつも外を見つめていた明かり取りの窓の格子は十字架になって重なる。

黙示録
私にはキリスト教のことはよくわからないけれど
宗教画のようにあちこちに隠された「しるし」のようなものが
キリスト教という宗教を越えて
どこか別の処ではなく 今この世界に起きていることとして
自分に突きつけられる。


普通の映画であれば省略されるだろう日常の行為
日々の生活の中でさえ仕事のために出来るだけ短縮したいその行為を
長い1カットで綴っていく。
繰り返し丁寧に。

人に与えられている究極のもの 
それはそれぞれに違うともいえるけれど
それさえ捨てて
等しく与えられているもの


・・・