伝えるこころ 

3.11以降「たね蒔きジャーナル」等で小出裕章先生(京都大学原子炉実験所)のお話を伺ってきました。こんな私にも本当によく解る説明で教えて下さいます。

そしてものを語る人間として 小出先生を尊敬しています。
お話しを聴いていると、感情が 人にものを伝えるのではないということがよく解ります。
ただ身体の深いところから発せられる偽りない明瞭な声 にこめられた、ゆるぎない使命感は聴く人の心を揺さぶります。

美しい日本語で、はっきりと、大声でなく小さくなく、目をしっかり見据えて発せられる言葉のひとつひとつに、小出先生が原発事故が起こる何十年も以前から主張してこられ、ほとんど誰の耳にも届けられなかった活動に対する信念が見えてきます。
それは自分の正しさを主張することでは決してありません。
国家でもない経済でもない、ただいのちを尊ぶ未来を想像したときに、そこからから送られてくる
『今選ぶべき道』それだけです。

よどみのない心が伝える言葉はその意味を超えて相手に響きます。
同じく政治家や推進派が国民を納得させようとして実は意味不明の言葉をあれこれ尽くしても、透けて見えてくるのはその内心ばかりです。

語りに臨むとき、源氏物語は小説で言うところの地の文が、女房という一人格の語りになります。それは当時の女房であり、美しい物語の形を借りながら現在を憂いた紫式部であり、一つの生を生きる女性 私でもあります。
ですから課題はとても大きく、物語解釈は勿論ですが、血の通った語り手がそこに我が地をもって言葉を発していかなければと思います。

源氏物語の『須磨』『明石』の巻で、歴史にも残る日本を襲った自然災害が物語にかさねられていますが、その巻の語り会が不思議に3.11の時期にかさなり、劇場空間で皆様と身体的な記憶を共有しました。
そのとき、源氏物語自体がメッセージを発しているように思えたのです。
その感覚は語るほどにつのっていきます。

この世にどんな役割があって生まれてきたのか本当のところは自分にもわからないけれど、表現活動をとおしてすることは、自分自身のパフォーマンスではなくて、いにしえの声を今に響かせるその仲立ちのような気がしています。
自分のふがいなさはよくわかっていてとても偉そうなことは言えませんが、
嘘のない声を発していかなければと思います。


たね蒔きジャーナル 小出先生のまとめ
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