消えてゆく 声

8月連続語り会の台本が出来た。今回のはぶ厚い。これでやっと台本だけは自分のものになる。
これからその内容を自分の中に浸透させてくのだけれど、グールドの弾くピアノのように一度テキストをバラして身体の中で生成し直すというイメージで向かっている(つもり)。

宮に仕える女房の問わず語りとしてすでに書かれてある言葉を、女房が”今”発想したように声にすることは、読む技術というところからは少し違うところにある。

facebookでお友達になった「絵を描く人」が「本当のオリジナリティとは、個を消すことによって生じるのではないでしょうか。」とコメントしていらして、激しく一人うなづいた。
もう長く学んでいる中世の踊りの世界でもそれを感じる。
およそ表現というものはそこにこそ本質が浮かび上がるのではないかと思う。
その「絵を描く人」は、仏僧が色砂で曼荼羅を描いて完成したら吹き消す という、私も以前観て深く心に残っていたことに言及し、一見不毛にみえるその行為そのものに、芸術の本質がかいま見えると言っていた。
語りも踊りも生まれると同時に一見消えていく。消えないで残る”作品”にではなく、絵を描く行為そのものに祈りがあるとその人の言葉から響いてくる。
うなづくことは簡単だけれど、自分事にしてみるとそれは大きな問いかけだ。
終わることのない自分への問いなのだと思う。

語り会の当日は、皆様に聞いて頂く 傍から見るとはれする日 で、ここで初めて人の耳に声が届けられるのだけれど、一体に、人の心にことのはを響かせ、それが ”ある像” を結ぶか結ばないかは、その日の語り手の表現によるものだろうか。
私は全然違うと思う。もちろん表面的な善し悪しでだいなしになったりすることもあるけれど、いつも必死のうちに終わってしまう語り会の弁解をしているのでもなく(苦笑)、当日までにかさねてきて握りしめているものを本番の日に自分をなくして解き放てているかということが、自分への問いなのだ。そして放つべき何をかさねてきたのかということ。。。

芸術家の器では決してない自分が実は苦手な表現活動をしているのは何故なんだろうといつも思う。
文学、ましてや学問としてではなく源氏物語をなぜ語りたいと思ったのか、それは自分の血の中にひっそりとある思い出せもしない記憶なのだと思うとき、この不安定な心身はしっとりと着地する。
今やっていることにもその先にもなんの自信も約束もないのに、妙な確信が私を落ち着かせる。
これを図にすると、目先はなんにも見えないけれど、振り返るとうすい霞の向こうになんだか沢山の人の気配があってものも言わずに居てくれる そんな感じ。命の先端にいまぽちっと居て、その先は見えないけれども後ろにはこれまで連綿と受け渡されてきたいのちがしっかり私を放さないでいてくれている。
その周辺に、紫式部のように宮廷に仕えた人もいるかもしれない。そんなことを思うとちょっとわくわくする。
 
中世の踊りを学んでいて、前世がとかオカルト的なことではなしに、このような踊りで都がおおいにに盛り上がった時代に私のご先祖もあたりまえに踊っていたんだと、以前外国の民俗舞踊を踊っていたときにはなかった興奮がウズウズと涌いてくるのも、京音調で源氏物語を声にするときの感触ににている。

声も踊りももともとは人に見せるものではなくて祈りだった。
源氏物語を声に出して語ることはご先祖供養なのかもしれない。
こう表現したい、というのはパフォーマンスに関わることではなくて、語る人間としての立ち位置を決めることなのだと思う。きっとそこがしっかりすれば、言葉が求めてくる音が身体の中から生まれてくるだろう。
簡単なことではないし、それがいま現実になっているとも言い難いのだけれど
千年前に書かれた物語を今声にするよろこびは自分の血の中にあって、外への表現でなしにどのくらい自分の中を旅することができるかにかかっているのではないかと思う。