此岸の目 彼岸の目 兆しの風

八月がまた巡ってきました。五年目に入った連続語り会。
『野分』の巻はこれまでと少し違った感覚になる巻でした。


源氏の子息 夕霧中将が、野分の風見舞いで巡る六条院御殿。
垣間見てしまった父源氏の最愛のひと 紫の上の美しさ。
親子とも思えない程の玉鬘との親密さ、中宮様の御殿の様子、明石姫の痛々しいほどの可憐さ。

これまでなら語る女房の感覚でその美しさを表現したものでしたが、
夕霧の動きを語りはじめた女房の感覚は乗り移るようにいつのまにか夕霧の視点に代わって、
15歳という大人になりかけた少年の瑞々しい感覚で六条院が捉えられていきます。

文章がそうなっているからといって心が勝手に女房から中将へ移行するかというと・・・、
そのあたりこそ今回は大事にすべきかと、紫式部のトランス自在の文体に乗ってみたのでした。

普段語っている女房の立ち位置は、語り手にもよるかと思いますが、
物語絵巻独特の吹き抜け屋台(これはだれが考えた手法なのでしょう!)のように

まさに少し離れて宙に浮いたところから俯瞰しているような視線、紫式部はここに居るような気がして、女房もそこから観るようにしていました。
けれども夕霧中将は作中人物、物語の中に生きています。
ですからこの巻では、自分の足で歩いて父源氏の御殿の様子をつぶさにのぞく夕霧の視点、さらにそれを少し離れた宙から眺める視点、そのふたつが行き交うというなかなか面白い感覚を楽しむことができたのです。

15歳と言えばもうこの時代は立派な大人扱い、女君の御簾の中へは許されません。
でもまだ15歳、初恋も成就していない夕霧は生まれてすぐに母葵の上を亡くしています。
祖母宮に育てられ、花散里が母代わりですが、本当の母のやわらかさに包まれたことのない夕霧。

若かりし頃、父帝の妃藤壺の美しさに心惑いし密通、現在の帝は実は不義の我が子であるという命懸けの秘密を背負って生きている源氏は、息子が同じ過ちをかさねないよう、というよりも最愛の人を誰かに奪われたくない心理で息子夕霧を南の御殿に近づけようとせず、また、夕霧を身分ではなく実力でこの世を生き抜ける人物に育て上げようと、甘やかされる多くの貴族の子息をよそに、彼を低い官位から出発させました。
父の二つの思いを知らない少年は、父の愛さえも遠くうすいものに感じ、恋した雲居の雁とはその父内大臣に引き裂かれ、一心に勉学に励むことで心の欠乏を埋めていました。

源氏は3歳の頃 母桐壺の更衣に死に別れ、母の面影を映す藤壺、紫の上などの女君がその後の源氏の心を癒し、その思いがままならないときには必ず別の女君が登場してきましたが、夕霧にはその存在が大きく欠けているのです。

ふと、この物語のある場所でいつも思い出す小説『蜘蛛の糸』にかさなりました。
以前お仕事で『蜘蛛の糸』を録音したときに感じた不思議な感覚、
それは地獄と極楽、お釈迦様の様子すらも俯瞰している大いなる目として語るうちに得られる、なんともいえない時空感でした。
芥川龍之介は宇宙の根源のような意識を読者に味わうことをさせているのかと感じたのですが、野分の嵐にめちゃめちゃにされた美しい庭の花と、のぞいてはいけない美しい人達を垣間見てはあちらこちらで心乱れる夕霧少年の様を、紫式部は悲母観音のように見つめているのではと、物語の語り手 女房である私はいつの間にか夕霧のことを母になったような気持ちで見つめていました。


野分

ここにある目 そして 
遠くにある目

紫式部は夕霧を単に都合良く狂言回しに使うのではなく、「大いなる意識」的存在となって
私達に語りかけてくるように思えます。

この上ない栄華のさなかにも思惑に惑う人間達に、野分という人間のレベルでは抗うことのできない力が舞い降り、それが過去になった頃にあらためてその爪痕が浮かび上がってくるような恐ろしい兆しとなって刻みつけられるこの巻なのだと思います。

この野分は現在の私達にも無関係でなく彼方から吹き下ろしてきているものだと思います。










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