ことばにすること 

源氏物語〜かさねる心」
初めての長い講演をさせていただきました。

源氏物語を語る中で自身のテーマとしている「かさね」のさまざまを
物語の大きな流れとともに そして後に伝えられていったかさねの表現に繋いで
私達が生きる中でかさねとはどういうものなのだろう
文字に表されたことばに 声をかさねることってどういうことなのだろう

・・・と日頃語りをするなかで感じていることを
ことばにして 声にして 発してみました。

そして聞いて頂くだけでなく、身体を使って 自分の声 を
感じていただこうという試みも。

最後には色紙を使ってみなさんのかさねの色目を提案していただいて
2時間半はあっというまに終わってしまいました。

いつも自分の世界の中だけでぐるぐるしていることを流れをもって人に伝えるのに
どうしたらいいのかと準備に手こずりましたが
じっくり自分の中を探ってみたことで さまざまのことがくっきりとあらわれてきて
どうして自分が語りを続けているのかが明確になりました。

でもやっぱり 
自分はこう思っているんだーということを聴いてもらうより
語りを聴いていただく中にその思いが籠められてるということを感じていただけるようでなければ。

語りにもどろう   新鮮な気持ちで。




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撫でし子の 父 母のかさね


常夏はなでしこの花の異名。なでしこは撫でて愛しむ子の意。
頭中将(現内大臣)にとって亡き夕顔の遺児玉鬘が常夏。
源氏大臣がひきとったという姫こそがわが娘と知らずになでしこの姫を探す内大臣は、
落胤の姫 近江の君を迎え入れます。


が。 が!・・・なのです。
近江の君はまるで山猿。
美人なのですが額が狭く早口で
お姫様らしくない・・・。

内大臣は娘弘徽殿の女御の側で行儀見習いくらいさせようと思うのですが、
近江の君は嬉しくて嬉しくって女御のお手洗いの掃除だってやるわ!
・・・ってそれ意気込みすぎです・・・。
 
双六好きで とんちんかんな歌を詠んでは皆さんに笑われてしまうのですが、妙に親しみを感じるお姫様。
今でいえば急にセレブ扱いされるようになったものの
言葉遣いもなっちょらん、パチンコ好きがなおらない〜〜〜
・・・そんなお嬢様です・・・。

早口のお姫様。
これはなかなかおもしろいキャラクター設定ですね。
どんな風に語ろうかしらん 常夏の巻。
この日のために・・・
これまでずっと父内大臣を早口のおとどとして語って参りました。
(にまにま)。

玉鬘が幼くして別れた母夕顔の性質を受け継いでいたように、
離れていても親子は似るのである。
父に似ちゃったのがちょっと難でしたが・・・。




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あはひの物語


源氏物語は王朝の恋愛物語ではなく あの世とこの世のあはひ 境の物語だと思います。

朝顔の巻では、朝顔の姫宮に恋情を訴え退けられた源氏が 
その後紫の上に ずっと胸に秘めていた亡き藤壺のことを語ります。
そのことだまに震えた藤壺の魂が夜半雪の庭に降りてくる。
明け方の源氏の夢にあらわれます。
藤壺の姿が見えたかと思ったら紫の上に揺り起こされて 愛しい姿は消えてしまう・・・。
そこに見えるのは藤壺の宮の形代として育て、宮に大変よく似た紫の上・・・。
あの世の藤壺とこの世の紫の上。
 そして先の朝顔の姫の歌がここにかさなります。

 秋はてて 霧のまがきにむすぼほれ 
      あるかなきかにうつる朝顔

朝に開くあさがおの花は光にまみえたかと思うとじきに萎んでしまう
見事なかさねだと思います。

この巻に朝顔の姫宮とのやりとりが必要とされるのは
彼女が巫女としてあちらとこちらを結ぶ役割を担っているからなのでしょう

朝顔の巻が大好き。源氏物語らしい巻だとおもいます。





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京都有隣館 春秋の誉れ

4月21日、京都東山の私設美術館の草分け「有隣館」で「胡蝶」の巻を語りました。
女房語りの活動を支えて下さる京都の方々が企画して下さった語り会です。
現館長様の御祖父様が蒐集なさった美術品の数々が静かに気配を醸し出している館内。
開演までの時間、「蜻蛉(トンボ)の間」と呼ばれる洋室で珈琲サービスがあり
ゆったりとした時間にやわらかな珈琲の香が漂いました。
この蜻蛉の間、壁のファブリックにトンボが一面に”手刺繍!”されていて、
洋風の格天井は紅葉の木象嵌
床もトンボと紅葉の象嵌と寄せ木の格調高いお部屋でした。
控え室に使わせていただいたのはお隣の「蝶の間」。
こちらは壁の刺繍が蝶に、天井が桜。
ということで、この二つのお部屋が春と秋のお部屋だということが分かりました。

春と秋というとどちらも優劣つけがたい美しい季節、
源氏物語の薄雲の巻で、母六条御息所の亡くなった秋に思いを寄せる娘・斎宮の女御が
乙女の巻(この巻では秋好中宮)で、六条院 秋の御殿の紅葉を自慢したところから
春の上(紫の上)は春の到来を待ってそのお返しに心を傾けます。
そんな前段あっての「胡蝶」の巻。

時は春。簡単には身動きの出来ない中宮の代わりに女房達を春の御殿に招待し、
異国情緒溢れる演出と春の御殿の花盛りの様子に女房たちは熱狂します。
翌日の、中宮主催の大法会には春の上から見事な桜と山吹が
胡蝶と鳥の装束をした女童たちを以て献上され、その心憎いお返しに宮は折れ、
春に文字通り花を持たせる結果となりました。
源氏の君を軸に、女君達が見事な調和をとって、六条院御殿の誉れは翳りもない様子。

そんな「胡蝶」の巻を、丁度良い季節だからと選んだのですが、嬉しいことに
この優劣つけがたい春と秋のお部屋のある有隣館にふさわしい演目となりました。
館長様もお忙しい中最後まで通して聴いて下さり、興味深いお話を沢山お聞かせ下さいました。

宗教学者山折哲雄先生が、お忙しい中お運び下さり
終了後には大変嬉しいお言葉とともに激励して下さって、感激しました。
亀の歩みのわずかな進歩を感じてくださったようで、本当に嬉しい日となりました。

京都には筆に尽くせないほどの宝があります。人、場、歴史、もの。
そんな中で、いにしえのことのはを畏敬の中に声として発することの喜び、怖さ。
人や場や歴史やもの それぞれの望みが出逢うとき
時空は不思議な香をもって集う人々に共有されます。
そんなめぐりをまた遠くで望んでいる、私達を俯瞰するおおいなるなにかの存在を
感じたような春の京都でした。



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闇の気配 蛍の光


螢の巻を語り終えました。沢山のお運び、ありがとうございます。

六条院という素晴らしい環境の中、人知れず玉鬘の姫が 
源氏の大臣の恋情に困惑を深める巻。

火をおこさない限り、夜ともなると月星の他には明かりのなかったかの時代。
王朝人は闇の中、焚きしめられた香を頼りに五感を澄ませ
恋人の気配を聞きます。
几帳の向こうにいる恋しい方の吐息、衣擦れの音に 
指の動きさえ逃さない想像力が夜に翼を広げます。
京都の湿度の高さはこれを一層悩ましいものにしたでしょう。

源氏が自身の複雑な恋心を紛らすかのように 螢を放ち、
姫の美貌をその光に浮かび上がらせて弟宮兵部卿宮の心を惑わす場面は
あまりにも美しく有名で 美を求める人々の手で絵などに表されてきましたが、
この巻の要ともなっている「物語論」は声にして発するしかありません。

源氏の言葉でありながら、紫式部の考えが映しだされるこのくだりは長台詞で、
毎回自分の中でもちょっとスリリングに展開していきました。
そして最後に源氏が冗談めかして

「さて、かかる古事の中に、まろがやうに実法なる痴れ者の物語はありや。
・・・・・・いざ、たぐひなき物語にして、世に伝へさせむ
(こうした古い物語の中に私のような律儀な愚か者の物語はありましょうか。
・・・これまでに例のない物語にして世に伝えさせましょう)」と云いいます。

この言葉の通り、千年後に生きる私達は 
世界に類を見ない物語として源氏物語を受け取っています。
いったい紫式部という人はどんな人物だったのでしょうか・・・・。

馬弓の競技の場面では、夏の御殿の若女房達が、この季節の花である 菖蒲、おうち(せんだん)、撫子などの色をかさねた衣裳で着飾って物見をするというので、今回は少し明るい松葉色の無地の着物をまといました。
紫系を差し色にして かさねの色目では杜若の色でしょうか 
見物する女房としてはちょっと年かさで、舞台の照明が黄色みを帯びているので
色がとんでおりますが気分は菖蒲。撫子の若葉色・・・。
(その気になるのは大事な事でござりまする・・・!)

今回も少しだけ、原文の、源氏が螢を放つ段をお聴きいただきました。
キッド・アイラック・アート・ホールは真っ黒な異空間を味わえる劇場。
この漆黒に 皆様がイメージに浮かび上がらせて下さった玉鬘の姫君は
いかな姿であったことでしょうか・・・。


facebookのファンページとして ことだまのくに を開きました。
声は言霊を活かし、鎮めます。源氏物語を京ことばで語りながら、
いにしへ ことのは 声の響き 色彩 香 有職などのなつかしいものを皆様と共有出来たらと思います。




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3月の声 残響

 昨日は3月の声と称する輪読の会に出席しました。3月にまつわる日記や小説、詩を思い思いに持ち寄って、喫茶店の片隅でひっそりと声を交わしあいました。私は芸もなく源氏物語の花の宴から藤の花の宴を原文で聴いていただきましたが、ステージで語るのとは違って顔をすぐ傍でつきあわせて居る10人程の人の耳にだけ届けるような静かな語り。ふと この感じは案外その昔の女房の語り声だったかもしれないと 思いました。
 
参加者のお祖母様の二十歳の時の日記は大阪の空襲の体験が綴られていました。そして無くなった詩人の遺した詩、つい最近の出会いと対話をおこしたもの、大事な言葉をくれて今はもう会えなくなった方への愛しさを綴った自作、生まれて、育って、受け継がれてゆく命の連歌・・・。

テーブルを囲んで少し前傾で耳を傾ける私達は、見えないドームで覆われているようでした。その中に響くちいさな声。人の声は心を揺らします。書かれたことばを声にするという行為は思いへの供養だと思います。新たに生かし、そして鎮める。声にすることで思いは命を貰い生き続けてゆくのです。

参加者のお一人は地質学者で、何億年も前の石の記憶を聞くのだと話して下さいました。石も、本も、黙ってそこに在って、紐解かれるのを待っているのかもしれません。カザルスが、ちょうど昨日が誕生日だったバッハの無伴奏チェロ組曲に命を吹き込んだように。そんな語りが出来たらと心から思います。

命を宿すもの

 無事二十四帖「胡蝶」の巻を語り終えることが出来ました。有難うざいます。
今回は以前舞台で演出していただいた懐かしい先生に聴いていただけました。
また高校時代のごく短期間ですが一緒にバンド活動などした懐かしい先輩、
ラジオドラマをずっときいて下さっていた方、さまざまの嬉しい再会の中で、
いつもいつも励まして下さった方の不在に涙しました。この連続語り会を始めたときに、
「私も10年間、元気に長生きして最後まで聴きますね」といって下さった中井先生の幼なじみの方・・・。
この連続語り会が始まって4年、あっという間の、でもまだ4年。五十四帖の半分にも満たないのです。
玉鬘十帖が終わると最大の難関「若菜 上下」が待っています。
中井先生がこれをこそ・・・といっておいでだった長大な巻。
どうようにこの大海に漕ぎ出してゆくのでしょうか。
ご冥福を祈りつつじっくり考えたいと思います。

会が終わって、おあずけにしていた展覧会に。

 円空展では、一室の小規模な展示でしたが芯からあっためてもらえました。
仏像の前に立つと、反射的に自分の中の甘えをを正して向かうような気がするけれど、
円空菩薩って「合掌」というかたち以前に思わず手が胸の前に合わさって、
近づくほどにうれし涙とともに抱きつきたくなってしまうのです。
ありのままの自分を許してもらえるような気がするのです。
木を縦に三等分にして彫られた三体の仏様は、また合わせると一本の木に戻る。
木の中心では三体の仏様の合掌の手が結ばれるかのようです。
円空さんの彫る仏様の合掌は細かに手を表現せずに、
衣の中で合わせられたようになっていて、それがあったかい。。。
ぎざぎざとざっくりとしていながら風になびくような衣の様子は、遠くから見る杉木立みたい。
木から生まれた仏様というより、仏様が立ち並んで木立になっていったのかも知れません。

 文楽「曾根崎心中」のお初 徳兵衛 その死の道行きの場面にスポットを当てた映像展「人間・人形 映写展」。
人間国宝吉田 簑助さん(お初)と桐竹勘十郎さん(徳兵衛)の舞台を以前拝見して、
感激のあまり終演後も暫く席を立てなかった作品を、ゆるやかなスローモーションで、
普段は決してみることの出来ない角度で体感することが出来ました。
閉ざされた恋の中に死んでゆく若い二人、恋人の刃を胸に受けるお初のやわらかな微笑み。
人形に此方が感情移入しているのではないのです。人形を超えて、型を超えて、人間の表現まで超えたような命の宿りに狂おしいほどに感動したのです。
現在最高のお二人の人形を遣う様子も人形を持たないかたちで見せていただけて、
ものに命を宿らせるという至高のお仕事に心から敬服したのでした・・・。

 そしてピナ・バウシュの舞踊団のダンサー ジャン・サスポータスさん、斉藤撤さんらの「うたをさがして」。
喪失の沈黙が やがてことばとなり うたとなって 身体からこぼれ出す。
身体の奥底に沈殿した命が光となって芽を吹き出すような 素晴らしいステージでした。
さとうじゅんこさんの深い歌声の寛さに、
飛べない大きな鳥が羽ばたきはじめるようなサスポータスさんの軌跡に、
斉藤さんの詩的な音と間とうねりの世界観、喜多さんの変幻自在に、静かに狂いました。

 久しぶりの西洋絵画展でみたエル・グレコ
かつての 絵に描かれたような神の世界に裏切られたかのごとくにグレコの描く身体はねじれ、くねりだします。頭をもたげ天を見上げて 十字架に身を委ねないキリストの目は生々しく光を宿しています。
時代による宗教観の変化を聴きながらみた数々の作品に、血の通った人間のさまが伺えました。
日本でも中世において人々がかぶきだしたように、地に足をつけて苦しみも喜びも肉体を以て感覚し、真に生き始めた人間の表現が始まった時代なのだろうかと感じました。
 

 表現に命を宿らせること それは
姿を変えてなお命を欲している目に見えないものと出逢って、
そして表現者がまた目に見えない器になれるかどうか
光のようにとりとめもない、あるものを この手にいたわることが そしてどれだけできるのか
生まれて 死んでゆく短い時間の中でそれがひとつになったとき 
人は本当の宿命を生きることになるのだと思います。




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