Sad Song


ルー・リードがなくなった。私にとっては ことだまの歌い手。
音符に従うのでなく 彷徨するように 言葉が求めている音を問うように 音を紡ぐ人。

どんなに堅牢な理屈も人の心は動かせない
心に直にふれてくる 揺らめくような生命感
それが人に力の源にある光をみせる

これからの世界を開いてゆくのは 詩人の魂。
詩を書く人のことじゃなくて
すべての表現に先立つもの 詩霊
それが 色や音やことのはに姿を変える

器に収まりきれなかった魂
解き放たれて やすらかに

たちのぼる詩霊をもとめて
有形無形に思いを馳せている
今日はお弔いの歌の中にそれを探そう





facebookでいたみを共有するうちに訃報の衝撃が
あたたかく内から湧きあがるものに変わっていったのは幸せなことだった。

人の死で生を思った。 今生きていることの不思議さ。
死を思いながら真剣に生きねば








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おおきに

理屈じゃないのよ京ことばは


句読点。読点これはくせ者です。
台本などにふってある読点は、読み解くためにふってあると理解し、
声にするときにはあえて無視したり、また読点のないところで息を入れることがあります。
そのことが命を吹き込むのに求められると思うときには。
源氏物語を読んでいても
あとからふられた句読点のままに読んでいると気持ちが収まらないことがあって、
畏れ多くも勝手な解釈で句読点のありようを変えて語ったことがありました。

京都の物言い
後から言葉を添えたりすることが多いなあと紫式部の語り口調にも感じます。
そうして言葉をかさねてかさねて
おぼろげな中からくっきりとものが感じ取れるようになる、
それはまさに色のかさねのようだと思います。







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おおきに

彼岸の花 遠くの私


天に手をさしのべる彼岸花
降りてくる魂を受けとめようとしてるみたい
異名を数持つこの花に名前をあげるとしたら 千手花

お盆は各お家に戻ってくるおしょらいさん
秋の彼岸の間はこの花に宿をとるようで
お彼岸過ぎてこの花は灰がちの炭が白く燃えるみたいにわらわらしていて
人が出てった空き屋を思わせる
秋 飽き 空き 明き 紅きあき



ごく小さい頃、母は病弱でよく伏せっていました。
二つ上の兄と外で遊んでいたら彼岸花の真っ赤に咲いているのを見つけました。
あまりに豊かに咲き誇っていて感動したのを今も覚えています。
ぽきぽき手折って一抱え、母の病床にお見舞いしたら
母は手振りでそれを下げさせました。
目をつむって花を見ようともしない母に呆然として、
あぜ道に咲いてはいてもれんげ草と違ってとても立派で大きかったので
お百姓さんに無断でこんなに手折ってきたのを咎められたのだとションボリしました。
あとになって何故だかわかって、弱っていた母にすまないことをしたという思いと
世の中に縁起の悪い花があるのだということに愕きました。
子供の目には本当に艶やかに美しく、元気にまっすぐ咲く花としか思えなかったのです。
今も私の中ではある日突然に真っ赤に咲くこの花は
幼い私と繋がる美しくて大事な花。
現在母は別人のように元気です。







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おおきに

此岸の目 彼岸の目 兆しの風

八月がまた巡ってきました。五年目に入った連続語り会。
『野分』の巻はこれまでと少し違った感覚になる巻でした。


源氏の子息 夕霧中将が、野分の風見舞いで巡る六条院御殿。
垣間見てしまった父源氏の最愛のひと 紫の上の美しさ。
親子とも思えない程の玉鬘との親密さ、中宮様の御殿の様子、明石姫の痛々しいほどの可憐さ。

これまでなら語る女房の感覚でその美しさを表現したものでしたが、
夕霧の動きを語りはじめた女房の感覚は乗り移るようにいつのまにか夕霧の視点に代わって、
15歳という大人になりかけた少年の瑞々しい感覚で六条院が捉えられていきます。

文章がそうなっているからといって心が勝手に女房から中将へ移行するかというと・・・、
そのあたりこそ今回は大事にすべきかと、紫式部のトランス自在の文体に乗ってみたのでした。

普段語っている女房の立ち位置は、語り手にもよるかと思いますが、
物語絵巻独特の吹き抜け屋台(これはだれが考えた手法なのでしょう!)のように

まさに少し離れて宙に浮いたところから俯瞰しているような視線、紫式部はここに居るような気がして、女房もそこから観るようにしていました。
けれども夕霧中将は作中人物、物語の中に生きています。
ですからこの巻では、自分の足で歩いて父源氏の御殿の様子をつぶさにのぞく夕霧の視点、さらにそれを少し離れた宙から眺める視点、そのふたつが行き交うというなかなか面白い感覚を楽しむことができたのです。

15歳と言えばもうこの時代は立派な大人扱い、女君の御簾の中へは許されません。
でもまだ15歳、初恋も成就していない夕霧は生まれてすぐに母葵の上を亡くしています。
祖母宮に育てられ、花散里が母代わりですが、本当の母のやわらかさに包まれたことのない夕霧。

若かりし頃、父帝の妃藤壺の美しさに心惑いし密通、現在の帝は実は不義の我が子であるという命懸けの秘密を背負って生きている源氏は、息子が同じ過ちをかさねないよう、というよりも最愛の人を誰かに奪われたくない心理で息子夕霧を南の御殿に近づけようとせず、また、夕霧を身分ではなく実力でこの世を生き抜ける人物に育て上げようと、甘やかされる多くの貴族の子息をよそに、彼を低い官位から出発させました。
父の二つの思いを知らない少年は、父の愛さえも遠くうすいものに感じ、恋した雲居の雁とはその父内大臣に引き裂かれ、一心に勉学に励むことで心の欠乏を埋めていました。

源氏は3歳の頃 母桐壺の更衣に死に別れ、母の面影を映す藤壺、紫の上などの女君がその後の源氏の心を癒し、その思いがままならないときには必ず別の女君が登場してきましたが、夕霧にはその存在が大きく欠けているのです。

ふと、この物語のある場所でいつも思い出す小説『蜘蛛の糸』にかさなりました。
以前お仕事で『蜘蛛の糸』を録音したときに感じた不思議な感覚、
それは地獄と極楽、お釈迦様の様子すらも俯瞰している大いなる目として語るうちに得られる、なんともいえない時空感でした。
芥川龍之介は宇宙の根源のような意識を読者に味わうことをさせているのかと感じたのですが、野分の嵐にめちゃめちゃにされた美しい庭の花と、のぞいてはいけない美しい人達を垣間見てはあちらこちらで心乱れる夕霧少年の様を、紫式部は悲母観音のように見つめているのではと、物語の語り手 女房である私はいつの間にか夕霧のことを母になったような気持ちで見つめていました。


野分

ここにある目 そして 
遠くにある目

紫式部は夕霧を単に都合良く狂言回しに使うのではなく、「大いなる意識」的存在となって
私達に語りかけてくるように思えます。

この上ない栄華のさなかにも思惑に惑う人間達に、野分という人間のレベルでは抗うことのできない力が舞い降り、それが過去になった頃にあらためてその爪痕が浮かび上がってくるような恐ろしい兆しとなって刻みつけられるこの巻なのだと思います。

この野分は現在の私達にも無関係でなく彼方から吹き下ろしてきているものだと思います。










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おおきに

あの山の向こう 生の彼岸に



「常夏」「篝火」の語り会が無事終わりました。
ちょうど五十四帖の折り返しの帖が夏至の日とかさなって
この四年間を少し振り返ってみました。

中井和子先生が遺して下さった美しい京ことばによる源氏物語
一語残らず声にしようと 無謀にもはじめたこの企画。
第一回目、八月八日の暑い日
想像以上に応援に駆けつけて下さったお客様を前に
嬉しいやらおそろしいやら、とにかくはじめてしまってから
夢のようにこの四年が過ぎました。

試行錯誤を繰り返しながら、すこしずつ変化して現在の「女房語り」に。
これでいいということはきっと永遠になく
またこれから変化し続けて行くのだと思います。
願わくばそれが進化であるように。

帖を進める毎に人間関係が複雑になってゆくので
相関図を大きく出力して(いただいて)それを見ながら解説をお聴きいただくようになりました。
また
和歌だけはそのまま語ってきたのですが、
ご要望があって、今年から和歌のあとに、さらりと訳を付け加えることにしたのです。
語りのリズムが崩れるのではと悩み、今も本当のところどうなのかと思っていますが、
大切な心を表現する和歌のところで、その心がわからないままに次に進んでしまうのは、
というご意見は、語りに心から耳を傾けて下さるかたのお言葉だと思え 踏切りました。

これら目に見えることの説明は簡単ですが、
語りそのものと自分との関わりについては ここでは言葉にしきれない思いがあります。
ただ、読むほどに、学ぶほどに、源氏物語が深く、広く、高く、膨大で
一生がもう一度あっても足りないような気になってきています。

時を経て、健康であれば源氏物語五十四帖を無事語りきることはできるでしょう。
はじめた頃はとにもかくにもそれが目標にありましたが
語るうちに源氏物語の豊かさが逆に私に語りかけてきました。
そしてあの三月十一日を境にもう一度、声にして語るということを考えはじめました。
自分に課した目標の その先にあるものをみつめ続けて
いにしえの物語を語りながらまさに今現在を生きてゆかねばと思います。

膨大な物語が発信してくるものを
否応なく生きることを求められるこの空の下で受けとめてつなげてゆこう 
いきものたちの命さざめく彼岸へ



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おおきに

常夏 なでしこ いとし子 山猿・・・!


四年目にして、源氏物語連続語り会は五十四帖の折り返し点です。
お支えありがとうございます。

物語は折り返しにふさわしく(?)源氏の息子達の代がいよいよその個性を発揮しだします。
玉鬘十帖も盛り上がって来、常夏の巻と、篝火の巻が控えています。

源氏の息子夕霧。現在は胸に秘めた雲居の雁への思いに忠実な真面目一筋。
内大臣の子息 中将の朝臣は、後に柏木と呼ばれ、源氏の運命に大きく関わりますが
父譲りの和琴の名手、そして彼の吹く笛の音も源氏大臣を感心させます。
その弟の弁の少将の歌は鈴虫にまがうほど とか。

常夏はなでしこの古名、撫でて愛しむ子、という子への思いにかさなるこの巻は
まさしく源氏と内大臣のお子さん達が全員集合というような巻なのです。
当時の貴族は女の子を如何に育て入内させるか、これが大きな課題でした。

絵合の巻は優雅に絵を競べる王朝の雅な香漂う巻でしたが
実はあれから内大臣の嘆きが始まりました。
頭中将時代から源氏の君に競べられていつも二番手だったけれど、
次の世代にまで自分の二番手の影が落ちている・・・!
熱心にお后教育してきた娘弘徽殿女御が、中宮の座を源氏の養女 梅壺の女御に奪われたのでした。
それではと、もう一人の娘 雲居の雁を東宮妃にとおもったら・・・
源氏の息子夕霧と恋仲だって・・・?まろは聞いちょらーん!
許せんとばかりに二人を引き裂き、ああ、ほかにどっかに女の子、作っとかなかったかな。
そうそう、あの夕顔の生んだ女の子、三歳だったあのナデシコを捜そうではないか。

そのナデシコは、源氏の君が自分の娘として六条院に引き取った、玉鬘の姫。
そんなことも知らずに内大臣、「御落胤」と名乗り出たある女君を
(よっぽど女の子を求めていたのでしょうね)よく調べもせずに引き取りました。
それが山猿「近江の君」。
いきなりセレブになっちゃって 有頂天\(^O^)/。
暮らし向きがガラッと変わったけれど、双六大好きやめられない〜
だって人生ゲーム(懐かしい)で一気に富豪になっちゃったみたいなものだもの、
サイコロの目に人生の醍醐味感じちゃう!!  ・・・・・。

娘雲居の雁にうたた寝すらも許さない御父様内大臣がお出ましになっても
控えることを知らないこの姫は、実はとても可愛い自然児、素直な子なのです。
「お父様のお便所のお掃除だっていたしますわ!\(^O^)/」   ・・・・。

道ばたに元気に咲いていた草花を引っこ抜いて水栽培の花園に放り込んだみたいに、
むき出しの、土の絡んだ根っこをみせてわが世の春 と張り切る近江の君。
素晴らしい教育の賜物で、そんな君をあからさまに笑うこともしない弘徽殿の女御。

近江の君の滑稽なふるまいのせいで、玉鬘の姫の優美さ、高貴は引き立ちます。
でも自分の立場、生い立ち、不安なゆく末を、源氏に気を使いながら
王朝人としての教養を身につけてゆく玉鬘のなんと気狭なこと。

近江の姫は早口です。ぺらぺら喋る様に、父大臣はげんなりします。
式部も、いくら良いことをいっていてもしゃべり方で台無しになる、
たいしたことない内容でも、ゆっくりと赴きある話し方だともっともらしく聞こえる・・・
って、これは逆に貴族の有り様を揶揄しているようにも聞こえます。

近江の君を笑いものにすることで、紫式部は貴族社会の、あるうわべのもろさに
一石投じているようにも感じられます。

歌が少なく、台詞の多い、一風変わった小説のような巻。
同じ玉でもぎょくとボールくらいの腹違いの姉妹。
重さ、軽さ、その質感を如何に・・・・・・。


6/21,22 キッド・アイラック・アート・ホールでお待ちしています。








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おおきに

ことばに宿っているものを


ことばが宿している魂
魂 という漢字はエネルギーの塊のような印象だけど
たましい と声にするととたんにやわらかく浮遊しはじめるようです。

漢字を見て感じるそれと、声にした時に動きだすそれ。
そしてそれを声にするときには
大元は同じでも色合いや質感、水の含み具合、
輪郭の柔らかさなど 時々に違うのでしょう。

言葉そのものがその時欲している響きを見つけることが
自身の欲求による舵取りよりも大切なのだと思います。
そうでないときっと荒れた社のように魂が逃げて行ってしまうことでしょう。

ことば そのひとつひとつに宿る命は、
つなげてゆくことで新しい気を帯びてゆきます。

源氏物語には長文が多く、京都独特の
理論よりも感覚的にことばを言い足してゆく文体は
こころひとつでどのようにもうねりを変えるように思えます。
ことばがひとつ足されるごとに響き合ってどんどん振動数がかわってゆくと
声を響かせる身体の体感も変化していって
それを味わうのが楽しみです。







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